気づけばもう三月も終わりに差し掛かっている。歳を行けば行くほど早く感じるようになるというがその先人たちの言葉は全くもって間違っていない。
ダウンタウンの笑ってないけない、で年越しをして一連のお正月業務を終えてもう3ヶ月過ぎ去るのかと思うと怖い。
昨年末には騒音に悩まされたマンションから脱出して少々落ち着いたところだったので、
「来年、もう一度、親になるチャレンジをしてみようかな」
とどこかで心に薄めにハンコを押していた。
そうしたら年末から年始にかけて体が絶不調。久々に物が食べれなくなり、その流れで胃カメラやらMRIやらを経ていたら次は旦那が酷く体調を壊した。
そして気づけばもう4年の3分の1に足がけをし始めた。
初めて流産をした5年前から、『排卵』という本来なら意識せずに行われてるであろう事を必要以上に意識せざるを得なくなってしまった。
身構えて、排卵を予測し、そういった行為に及び子供を授かろうと奮起した。
そしてお腹に宿っては、引き離された。
不妊治療に苦労してる人たちもきっと同じだ。さらに『残された卵の数』なんてものも意識しなくてはならなくなる。
何度でもいうが子を望みなかなか恵まれない人間にとっては『授かった婚』なんて想像もできないし、生理をそして排卵を意識せずに行為に及びなんとなくできた。
なんてもうわけわかんないくらいに天文学的数字にしか思えないのだ。
そして女には残された卵的なものもあり、子を宿すこの体に期限がある。
一年にその卵を排す回数だって当たり前に決まってる。それぞれあったとしても大体は、単純計算して一年に12回、あるかないかなのだ。
その辺、男は体の不調がなく、気持ちの持ってきかた次第で(そこが歳を行けばむずかしいのかもしれないけど)体自体は毎日でも子作りできるスキルがあるのだから羨ましい。というか、だからこそ、単純でいれるのだろう。男までもがそこに制限がかかっていたら大変なことになる。不妊治療の時に大人向け雑誌やビデオを渡されて『精子を出してきてください』と言われるのだからとても端的だし、ある意味ではとても虚しいものかもしれない。
そこのところ、男性不妊が増えているのには何か意味があるのだろうか。
そう、だから『過ぎ去る時間が早い。』と日単位、月単位、年単位で考えてるとその脳裏にはいつも『排卵』という親になるためのスタートラインに立つ回数というものをどうしても考えてしまうのだ。
年齢がいくとともに流産率が上がるのは周知の事実である上に、そこに私のような流産や死産を何度も経験してる女は恐怖心という一番毒になるであろう精神的なハンデさえくっついてくる。
焦らないわけがない。
でも焦るなと周りはいう。
そりゃ、精神疾患にもなります。
人生の大仕事のタイムリミットは迫り、過去のトラウマを持ち合わせながら、そして自分一人で頑張ることではなくパートナーをもコントロールしなければならない。そして、焦るな、と言葉では言われるが焦らなければいけない確率論が確実に存在している。
沢山のモノに挟まれすぎて常に呼吸困難状態なのだ。
『時間』という概念を作った人はすごいしそれがなければもはや世界は回らないのは当たり前だが、1日が24時間で1年が365日という枠組みが疎ましくさえ思う時がある。
老いというものは恐れてはいないし、どんどん歳を経てわかることが増えて楽しいとも思う。そして、むしろ大切な人たちより先に死にたいくらいに考えてしまってはいるが、生殖機能に関してだけは『老い』を否定できず相変わらずハッキリと答えを出して進もうというカチンコが鳴らない。
誰かに鳴らして欲しい。今の私の物語には監督が存在しない。
この桜の季節は二人目の子がお空に行った季節だ。
あれから4年。あれから大好きだった桜が少し悲しく映る。
パッと咲いては散っていく大好きだった桜のように潔くこの選択を決め、前へ進みたい・・・。