死を迎える時に
「幸せでしたか?」
という質問をされ
「幸せだった」
という人たちの多くは四つ以上の『趣味』を持っていたという話を聞いた。
4という数字は総合した上での平均値か何かなのだろうが、とても納得のいく話だ。数はさておき。
自分を含め、周りの人間も幸福そうな顔をしているのははほぼほぼ自分が好きなことについて語っている時だったりする。
『マツコの知らない世界』に出てくる紹介人は、面白く変わった人たちが多いがその分野が好きすぎる人たちゆえに皆大体目がキラキラしていてついでに押しが強い(笑)。好きで仕方ないのだ。
趣味は多方面にあることだが、それがあるということはひいては
『それを知りたい!探求したい!』
という興味、探究心、そしてそれが動力となり脳内にアドレナリンやらセロトニンやらを出すのだろう。
好きなことを仕事にできてる人は一握りだが、後々気付いたら仕事にしていたことがものすごい好きなことになってたという例もあるかもしれない。
でも『仕事が趣味だ』というのは少し危険な気がする。
そのほかに完全なる趣味があれば話は別だがそれ以外にないというのはあまり良いことではないと思うのだ。
自分や旦那、そして父や母のことを考えてみた。
ありがたいことに私は趣味が割と多い方だと思う。ゲームやテレビドラマ、洋服も好きだし本も読んできた。今は生花というものに惹かれて学んでいる。ついでにミーハー課外活動も。その時間は自分から何かが分泌されている事を実感する。
旦那は無類のアナログレコードマニアで少し前に音楽を仕事にしていた私でも全くわかならいような音を沢山知っているし、帰宅しては日々携帯で面白い音源はないか探求している。そして妻としては「またかよ」と思うことも多々ありだが彼も洋服やスニーカーが好きで、結構な頻度で宅配便にて届く(苦笑)。読書もしてるし、ゲームも一緒に見てはああだこうだいっている。何より酒が一番の趣味だ。
父も前述したようにテレビゲーム、そして昔まだ老眼になる前は本も読んでいた。音楽も詳しくギターを奏でたりするし旦那と同じで元アナログレコードハンターだ。今はyoutubeで好きなチャンネルを登録し、色々な政治やら世界情勢やらを見て楽しんでいる。かなり多趣味な方だと思う。
母は割と「趣味がない」と嘆いていたことがあったが側から見れば映画や海外ドラマは好きだし、元々アパレル業界にいたため洋服も好き。少し前から重い腰を上げて友人の勧めでゴルフや書道に通い始めなんだかんだハマっており嬉しそうに私に話したりもする。
夫婦の話をすれば、『個々の趣味』と『共通の趣味』があると非常に大きな夫婦スキルになると思う。
子供のいない我が家だがそのスキルはありがたいことに元から持ち合わせていて、共通の趣味は『酒』と『洋服』。母と父に関しては『映画』『海外ドラマ』が共通趣味にあたる。
そしてそれぞれの趣味も持ち合わせているためにそれぞれの時間も必要でそれが大事な『合間』だったりする。
辛い時期、しんどすぎた3年前から今まで時々で救われてたのはやっぱりこういった趣味だったなと痛感する。
この文章を書くようになるにあたり、ありがたいことに多くの方々が読者になっていただくようになっていてその方達の事もとても尊敬している。こんな自分の文章を読んでみようと興味を持っていただいてる事はもちろん、そのほかのブログやSNSを読んだりyoutubeなどで知りたい事を自分から探しに行ったり、そしてそれぞれの方々にも発信している物事があったりする。
その時点で私には到底ない探究心だなぁと感心している。その時点ででっかい趣味をお持ちだ。
趣味を持つ=人やモノへの関心がある、という事だからなのか実生活で人やモノに無関心で『空気があまり読めません』みたいな人たちって割と趣味がないと耳にすることが実は多い。
無関心は仕事も機械的にしか行えずきっと何も自ら生み出すことも難しい、いや、それ以前に生み出したいという思考がないのかもしれない。
だからこそ仕事が趣味だというのは危険な気がするのだ。それがなくなってしまったらきっと風船みたいに萎んで一気に弱り
死ぬ間際に
「幸せでしたか?」
という質問をされたらきっと思い起こされることが端的になってしまうから
「幸せだった」
とハッキリ言えないのかもしれない。
趣味をもて!と言われても持てるものではないが、多くのことに興味や関心を持って生きていくことがやはり人生に、自分に、彩りとスパイス。そしてかけがえのない思い出を残す。
幸せの意味はここにあるのかもしれない。