この文章をネット上にあげていく事を決めた時に、お世話になったカウンセラーの先生に久しぶりに連絡した。
私のこの経験を綴る上で先生の話は絶対に必要な事だったので、その旨をきちんと伝えておきたいと思ったからだ。
それと共に、久しぶりに厄介な暗闇くんと相対していたので先生と、そう、同じ経験をしている人と話をしたいとも感じていたからだ。
カウンセリングを受けていたのはもう3年ほど前になるので先生の状況ももちろん色々変わっていた。
以前とは少し離れた所に引越しされ、手術を経験し、そして何より驚いたのは少し前に養子を迎えられ「お母さん」になっていた。
それを知った時にはそれはもう、嬉しくて嬉しくて心が躍るという久しぶりの感情が湧き上がった。
『先生、お母さんになれたんだ。』
久しぶりに心からハッピーなニュースで温かい気持ちをプレゼントされた。
そして考えた。
私はどうだろう。
もちろん流産を3回経験してなかなか授からない自分の状態を味わい続けてるから、養子問題というものに触れた事がない訳ではない。
その度に私はどうだろう、と考えたがはっきりした答えは出なかった。
だけど今はこうして実際に養子を迎え母親になられた先生の話を聞いて少し自分の気持ちが見えてきた。
きっと私の中にはそこまでの気持ちや覚悟はなく、その選択肢はない。
だからこそものすごく尊敬し、本当に親になるべき人はこういう人達だとも感じるのだ。
私はなぜ親になりたいのだろう。
繰り返しだがまた考える。
こちらは答えは出ない。
いや、きっと答えがない。ずっとふわふわしてるのだ。
その気持ちに明確な答えはないしその気持ちの強さ弱さでもないと頭ではわかっている。
学生時代の定期テストみたいに勉強すれば必ず答えが出るなら死ぬほど勉強するのに。
人生には答えがある事の方が少ないと思うけど、この『子供を持つか』どうかについては最も正解がないと思う。
「子供、別にいなくていいかもよ」
発言は実際に自分が授かれているからであってそれは答えではないし、生んでからも正解など出ようはずもない。
ただ苦しいのは
『正解がずっと出ないのに早く急いで自分の解答を出さなければいけない』
という事実だ。年齢的な問題で。身体的なタイムリミットがあるが故に。
こう考えるという事は私はきっと
『親になりたい』
のではなく
『自分の子供を残したい』
だけなのかもしれない。
毎日自問自答する。こんな気持ちでもう一度挑むべきなのか。
それとも天だかご先祖様だかに「やめておけ」と言われているのか。
こういう事をきちんと考えられるのもある意味では流産を繰り返し、はちきれんばかりに泣いて落ちて鬱病にまでなったおかげなのかもしれない。
ほぼほぼ普通の人はそんな事を考えずに親になっている。
私に今課せられてる課題はなんだろう。
こんな風に考えてしまうからややこしい思考に縛られて動けなくなるんだろう。
うまくいくこともいかないのかもしれない。
またどこかへ行きたくなった。
どこか遠くへ行きたい。
我がワンコを膝元で撫でながらふわふわした気持ちを落ち着かせ撫で下ろす。
沢山辛い経験をしてきた先生の子供になれたその子はとてもとっても幸せだなぁ。
素敵な温かい家族になる事は、それは間違いない答えだと思う。
もうすぐ桜がまた咲く季節が訪れるように、いつか私の中にも春が来たと実感できる時が来るであろうか。