そしてもう一つは鍼灸院。こちらの先生は普段はとある大病院で患者さんの相談を受けるお仕事をしながら、ご自分でも鍼灸院をされている方。とても優しい笑顔の温かい女性の先生だ。自らネットで検索をし見つけた先生だ。
これまでの事を細かく話をし、ゆっくり治していきましょうね。と言ってくださった。
3回目の流産手術を受けた後も、これと言った原因がなかったとはいえ不育外来には時々検査に通わなくてはならなかった。
ただでさえ記憶に染み付いてしまってしんどい空間だというのに、その不育外来はなぜか普通の『産科』的なエリアの真隣で拷問的な場所に肩身狭く置かれてるような感じだった。
不妊外来はちゃんと別のフロアに設置されているというのになぜだろう。認知の差か。
診察に行くたびに待合室にはご丁寧に大音量で赤ちゃんの心音が響き渡るような場所だった。
そこに行くのが嫌で仕方なくて、一度母に同行して貰った時
「なんなのあの心音は!外にあんなにでっかく出す必要あるわけ?」
と驚きと共にかなり憤慨していたものだ。
嫌味にしか聞こえなかった。最悪だった。
私以外にだって赤ちゃんがお腹でまた心音を止めてしまったと診断されて絶望したままそこに座らされてる人もいるだろう。こんな仕打ちはない。
初めに通っていた近所の産婦人科でも、2回目の流産の診断を受けた直後の大声で泣き叫びたいと思ったていた時に会計を待たされてる間、無邪気に待合室で遊んでる子供や妊婦さんをその場ではとても見ていれなくて耐えられず
「すみませんがどこか別のところで待っててもいいでしょうか?」
と死にそうな声で懇願したのに普通に断られ、仕方なく近くのコンビニの外で途方にくれていた思い出がある。
この国は優しい国と言われてるらしいが、私から言わせてみれば心から疑問に思う。
少数派、致し方ない状況、こと認知されていない事象についてはルールに縛られる力が強く全く優しくない。柔軟な心で苦しんでいる人間を助けてくれる精神の人の方が少ないんじゃないかと思う。
超有名なその大病院でもこの状況だ。患者の気持ちになんか全く寄り添ってない機械的な病院だ。
そんな空間に行くのが毎回苦痛でその日が近づくにつれ憂鬱で病院での診察を終えると、毎回暗闇くんを連れての帰宅になっていた。
当たり前である。なんで不妊治療科は別になってて不育診療科は産科の横なんだよ。
意味わからない。心から文句を言いたい。叫びたい。
そんな事を施術を受けながら鍼灸の先生に話していたら物凄い心配をしてくれてその悪循環な状況をなんとか打破できないのかと真剣に考えてくれた。
いつも理不尽な事などに一緒に怒ってくれる先生なのだ。
しばらくして先生から
「うちの病院にも最近不育診療科ができたみたいなのよ。そこの先生が私の患者さんも診て貰ってる先生なんだけどとってもよい先生みたい。一度こちらに来てみたらどう?」
と教えてくれた。
即決だった。
転院を希望して先生が相談員をされているこれまた有名病院の中に新設された不育診療科に通うこととなった。今までのカルテを見てまだ少しだけ検査の余地があると言われた私は再びいくつかの検査を受けることになった。
その不育科の先生も噂通りとても優しい雰囲気の方で、転院の理由を前の病院でのそんな苦痛な状態だったと話したら、そういう事を加味して新しく少し離れたところにこの不育科を設けて貰ったと話してくれた。
心の問題は治療にあたってとっても重要なのだと。
流産・死産のセミナーの時と一緒でその病院の待合は同じ思いをされてる方しかいない。そう。あの時と同様のシェルターがある空間だ。心からホッとしたし心から鍼灸の先生、不育科の先生との出会いに感謝した。
ここでならもう一度頑張れるかもしれない。一人じゃない、と思えた貴重な出会いだった。