私は親になれない

流産を3回経験し、絶賛『鬱病』闘病中・子なし四十路女の小言。それでも切実に伝えたい事。この日本でも個人での自由な生き方がもっともっと当たり前になりますように.....。

68、生きていけない

息子犬も大好きな人たちに会う事を控えさせてしまってる状況なので、ちょっとした散歩以外何とか家でストレスを溜め込まないように運動不足にならないように試行錯誤している。

 

ご飯も時間をかけて食べるおもちゃの中に入れるようにしたり、新しい『好きになる」おもちゃを発見できるように携帯でペットグッズと睨めっこだ。

 

うちの子はパグ犬なのでわりとグデッとした時間が長くてもそこまで問題ないが、大型犬や多くの運動量を必要とする子たちはもっと大変だろうと思う。

もちろん散歩はしてるのだが、何となく人を避けたりしながらなので人の大好きなうちの子はやはりどこか不満そうである。

 

そして昨日、挑戦した新しいおもちゃが彼の中で相当ヒットしたらしく楽しそうにはしゃいでいたのだが・・・・(しかもそれは猫のおもちゃ)

はしゃぎすぎてソファーから思いっきり落下してしまったのである。

 

キュンという鳴き声は出さなかったものの、やはり焦ったのかその後抱き上げた時、心臓が相当バクバク言っていて

「・・・・・・。」

とだんまりしてしまった。

ごめんねごめんねととにかくなだめ、本人以上に焦った私はネットで検索し、こういう時には何をチェックすべきなのかを調べ一連の流れを終え『心配』な気持ちは抱えながらも一応大事には至らなかったようだ。と確認した。

 

しばらく落ち込んだのかそのまま私の膝でスースーと眠った後、起き上がるともう

 

「おやつの時間では?」

という推しの表情で私を追いかけてきた。

もうすっかり相当な恐怖と落胆だったであろう事をものの15分ほどですっかり忘れているようだった。リセットボタンがかなり優秀に働く。

 

そう。短い命を生きる動物たちは嫌な事などさっさと忘れてしまわないと生きていけないのだ。

 

命が続くであろうと漠然と考える人間は落ち込んでは引きずり、ずーっとそれを忘れられずに苦しんで「その時」を生きて行かなきゃならない事を忘れてしまう。私はその典型だ。

だから犬や猫やその他動物たちは人間よりも限られた命をしっかり把握していて生きているようにさえ感じる。

 

『起きてご飯を食べて遊んで動いてちょっとお仕事して食べて寝る』

 

それでいいのだ。いいはずだ。

 

さくらももこ先生の漫画の中でも「コジコジ」という漫画が好きだった。内容は、『メルヘンの国』の学校に通うキャラクターたちが将来はスヌーピーやミッキーマウスのように人気者になるため勉強をしている。というもの。

さくらももこワールドのまま相当にシュールなのだが、きっと日本の神道的に考える『何事にも神が宿る』的な観点でこの主人公はかわいい純粋無垢「すぎる」神として描かれたものなのだと勝手に捉えている。

 

これがかなり深い事を言うのだ。

 

(学校の先生)「なにっ!? 遊んで食べて寝てるだけじゃないかっ」

(コジコジ)「えっ!悪いの? 遊んで食べて寝てちゃダメ?」

(先生)「コジコジ...キミ...将来一体何になりたいんだ?それだけでも先生に教えてくれ。なっ?」

(コジコジ)「…コジコジだよ。コジコジは生まれた時からずーっと将来もコジコジはコジコジだよ」

(先生)「がーーーーーーん(ぐうの音も出ない)」 

 

第一巻の第一話でこの名台詞が飛び出すのだ。

この漫画はきちんとシュールなオチがありながらも節々に考えさせられる事が沢山出てくる。

『神様はその辺にはいません。心の中にいます。』

 

みたいなことも軽ーくすんなりふざけながら言ってしまうのだ。

 

我々夫婦はこのコジコジが前から好きなので息子犬を見ながら時々

 

「コジコジみたいだなぁ」

なんて会話をするほどだ。

 

動物は今、この時だけを生きている。

それが一番難しいことだとわかってるから本当にこの子たちは凄い、というよりこれが本来の生き方だよな、と日々思い知らされるのだ。

 

悪い思い出は学びとしてだけ残して心にはそうそう残さずに生きていく。

人間は見習わなければならない事が沢山ある。

だからこそ私欲によって飼ってる人間も繁殖している人間も最低だ。

動物の殺処分はどんどん増えていく一方だという。

 

日本は神道の心が宿ってるはずなのにどうして動物、ペットに関しての法律が薄っぺらなのだろう。

そういうところがいつまで経っても豊かじゃないのよ、ジャパン・・・・・。