私は親になれない

流産を3回経験し、絶賛『鬱病』闘病中・子なし四十路女の小言。それでも切実に伝えたい事。この日本でも個人での自由な生き方がもっともっと当たり前になりますように.....。

33、偶然はない

一人目、二人目の子がお空に逝ってしまった時に住んでいた家の近くには有名なお寺があり、水子供養の立派なお地蔵様がいた。

それはそれは綺麗で優しい顔のお地蔵さんだ。

 

カタチとしてこの世に残らなかった我が子にはもちろんお墓がない。

それがなんとなくモヤモヤした気持ちを抱える一つの要因になっていた。

当時、まだあまり引きずらずに早く忘れた方がいいという考えであった両親は、

 

「水子供養なんて気持ちを縛りつけるような事はしない方が良いのでは?言葉は悪いけどまだカタチにならずに流れてしまったんだから」

 

と言っていた。

きっと、私の心があまりにも執着する事を止めたくて出た言葉だったのだろうと思う。なので水子供養をしてもらう事はしなかった。

それでも、このお腹に宿り現世という所へ一度は降りてきた命をカタチがなく亡くなってしまったからといって記憶の中だけで思い出したり慈しんだり時には会いに行ったりというのはなかなか難しい。

自分の中だけでも『お墓』という言葉に括り付けられない彼らの魂の安寧の場所を与えてあげたかった。

 

初めは一人でそのお寺に出向き水子供養のお地蔵様に挨拶に行った。まだ一人目の子とサヨナラをした後だ。小さな飴玉、ビスケットをお供えしお線香をたいて

 

「この世には生まれてこれなかった私の子供ですが、どうかよろしくお願いします」

 

と手を合わせてお願いをした。また涙が止まらなかった。でも心はどこか安堵したところがあったのを覚えている。

 

それからも二人目、三人目とお別れをしてはその優しいお顔のお地蔵様に

 

「どうかこの子たちをよろしくお願いします」

と手を合わせに行った。

今でも手術をした九月、十一月、そして三月には一人、もしくは夫婦でお願いをしに行っている。

その水子供養のお地蔵さんは偶然にも3人の歳の少し違えた子供を抱えている。

そこもまた何かを感じずにはいれないでいる。

 

命や魂に関してはいろいろな説があるけど、私はその時に宿った命はその時だけの子であると思っていて、『再び降りてきている。』という考えではない。

お空で魂同士がお話をして

「今度は君が行ってみなよ」

的な話をしているのかもしれないなとは思うけど、全く違う『魂』を持った子たちがやってきているのだと思う。

まがりなりだが三回お腹に命を宿すことができた自分は、毎回感覚が違う事を物凄く敏感に感じ取っていた。

 

そこにご先祖様や先にお空へ行った自分の大切な人たちの何かが宿る事はあるようには思う。サポートするために。

ペットも必ず意味があって指令があってその飼い主のところへやってくるのだという。毎日を長く一緒に生活をしていると本当にそうなのだろうと肯けることが沢山起こるのだ。

日々、我が家のワン子も以前実家で飼っていた弟分だったワンコとびっくりするくらい同じような行動をとっていて

 

「あ、完全にヤツが中に入ってるな」

 

と思うことが多々ある。

犬種も見た目も全く違うのだけどワンコとは思えなかった変わったクセがそのまま継承されてるのだ。面白い。

 

そう。その弟犬がお空へ行った時に私は

 

「今度は私の子供としてまた会いに来てね。お腹に帰ってきてね。」

 

と祈りを捧げた。結婚をする2年前のことだ。

だから何度も流産をし、なかなかこの世に生まれさせることのできない私の子供達にきっと毎回『ヨイショ』と乗っかっていたとは思うのだがあまりのうまくいかなさに、やはり再びワンコとしてこの子にちょっとだけ宿り、私を助けてくれているのだと思う。

そういう事は絶対にあると思うのだ。偶然とは言いきれないことが沢山起こっている。

 

水子供養のお地蔵様がある土地から少し離れた所へ引っ越した後、三回目の流産をしてしばらく。どうしても三人の我が子のなにかを刻みたくて仕方なくなった。命の証のような何かが。

元々少しだけ体にアートを入れていた自分だったので、思い立って何年かぶりにそれを自分の体に刻み込むことにした。

忘れるはずはないけど忘れないように。いつでも一緒にいれるように。

三つの星とお空へいった年を刻んだ。痛みは全く感じなかった。

はたからみればイカれた行動かもしれない。でも、私はとっても嬉しくて常に一番近くにいれるようになった気がしてこの時からは彼らのことを思い出す時も、今までよりは緩やかな気持ちで思い出すことができるようになったのだ。

 

そして、我が家にやってきたワンコはその刻んだ私の体の箇所をよくペロペロとなめるのだ。そして私はその子をなでなでする。

 

物事に偶然はないと思う。自分が想えばきっと全て『そう』なのだ。

それが世界で、命なのだと思う。

だとすれば私のこの経験もきっと偶然ではない。

今は本当にそう思っている。

思えるようになってきている。